『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』 - 村上 春樹 / まさに村上春樹的世界

村上春樹的な世界というのがあると思う。作家が見る世界の成り立ちがある。優れた作家には大なり小なりそういうものがあるのだと思うけど、村上春樹にはそれがとりわけ強くある。そして、世代的にと言うか、一部の層にはそれがすごく強く作用した。してしまったというか。そのなかでも、おそらく特に影響の強かった一作。

 

大まかなあらすじ

2つのストーリーがパラレルに展開する。「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」。雑駁には、前者が主人公の無意識のなかの世界で、後者が現実の世界。

少し詳しく言うと、現実の世界の暗号化に、暗号製作者の無意識を利用する技術があり、その過程で固定化された無意識の世界が「世界の終わり」。

無意識の世界ではすべてが完結していて、強い感情はない。悪意や嫉妬も存在しないが、喜びや愛情も存在しない。静かな世界でも生じる感情のオリのようなものは、幻想的な一角獣が引き受けて、唯一街の外と中を行き来して、死んでいく。

現実の世界では、その暗号化の技術を巡って、奇妙な博士や様々な勢力の思惑が入り乱れ、地下の世界を冒険する。幻想の世界では、図書館の女の子と出会い、自分の影と対話し、その街から出るべきかどうか葛藤する。

 

感想(村上春樹的世界)

初期の村上春樹の作風の代表作だと思う。自己完結的に閉じている。

僕は閉じた世界のなかで、たくさんの人を傷つけたし、たくさんのものを損なってきた。だけど、それなりにそこにあったものを愛し、多くはないけれど今でもあるものにはそれなりに気に入っているところもある、みたいな。村上作品の常套句のよう。そして無意識の世界はまさにそういう感じ。

現実の世界では、なんとなく出会った受付の女の子と仲良くなって、ちょっと声をかければそれなりに(こちらでも「それなりに」)仲良くなり、寝ることもできる。こちらも村上作品の現実の描き方の典型の1つと感じる。

揶揄しているのではない(しているのかもしれない。どうだろう)。村上春樹が引き受けた人間の一側面(すべてが確定的に白黒つけられないとか、人間同士が完全な理解に至ることは難しいとか)に、思春期の一時期に救われる人間がどれだけいるかということだ。

むしろ本当に揶揄する人にはそこを考えてみてほしいと思う。どれだけの人に、それくらいの本質的なことができるのかということに。ほぼ誰にもできない。あとはサリンジャーとか、太宰治ドストエフスキーを思いつく。いずれも青少年には有害図書に近い。