あらすじ、不条理について、など 『異邦人 - カミュ - 』

簡単なあらすじ

「きょう、ママンが死んだ」有名な冒頭。この小説は主人公(ムルソー)の母親の死から始まる。第2次大戦前のフランス領アルジェリアの首都アルジェ。ムルソーは母親の死に、悲嘆する態度を見せない。そのことは葬式の場で、養老院の院長や門衛を戸惑わせる。

 

葬式の翌日には、顔見知りの女と海水浴をし、夜を一緒に過ごす。同じアパートに住む男のトラブルに巻き込まれ、結果的に、その男の元愛人への暴力行為を手助けすることになる。

 

元愛人の親族がアラブ人仲間と復讐を企てるなか、ムルソーは男と別荘遊びをする。そしてそこでアラブ人と遭遇し、ムルソーはアラブ人を射殺する。

 

第二部、裁判がはじまる。判事からは、罪に対する神への改悛を、弁護士からは、母親の死への悲嘆を糊塗することを求められるが、ムルソーはそれらを拒む。それらは非人間性の現れとして、裁判に不利な影響を与える。

 

死刑が決定した。ムルソーは、教戒師の救いを拒み、母親を想い、世界の無関心に際して、世界を自分に近いものと感じる。幸福とともに、処刑の日に見物人が集まり憎悪の叫びで自分を迎えることを望む。

 

ムルソーの異邦人性

ムルソーは感情に未分化なところがあり、さまざまなことに「たぶん」や「と思われる」のような留保的な態度をとる。母親の葬式では養老院の院長や門衛を戸惑わせ、結婚の約束をした女に「愛しているか」と問われ、「おそらく愛してはいない」と答える。

 

ムルソー自身もそのことに自覚的ではあるが、裁判で自分に不利になると理解していても、社会が期待する一般的な態度に自己を合わせることを拒否する。ムルソーはそうした社会通念に対し、ときに「異邦人」としての姿勢を取ることを恐れない。

 

不条理について

作者のカミュは「不条理」の概念を打ち立てて作品を発表した。「不条理」とは、意味を求められる世界と、実際の世界との相違に生じるものと理解される。カミュにとっての世界は普遍的な意味を欠くものであり、不条理は不条理として受け入れられるべきものである。

 

そのため「異邦人」のムルソーは、普遍的な意味を欠くものとして世界を受け入れ、「こうあるべきだ」という意味性に支配された世界に背を向け、みずからの死を受け入れることになる。

 

実存主義との違い

カミュの不条理はサルトル実存主義と混同されるらしい。実存主義サルトル自身の講演記録である「実存主義とは何か」に詳しいが、同じ不条理に際して一定の態度を取り、社会に参画する態度を求める。つまり世界に意味を求めなければならない。根本は同じでも、方向性が違うものと言えるだろう。

 

カミュサルトルの論争はサルトル有利に進んだそうだ。具体的な問題(たとえばアルジェリア独立闘争)に対し、明確な態度を取るべきというのは一般に親しみやすいからかもしれない。「実存主義とは何か」を読んでいると、自己啓発を受けているような気持になる。