「ねじまき鳥クロニクル 第2部 第3部」

ねじまき鳥クロニクル 第2部 第3部 -村上春樹

内容を忘れていたのだけど、人間の持ち得る悪意について書かれた小説のようだった。読んでいてかなり消耗する(おもしろいけど)。悪意は底知れないものとして書かれる。深い海の底が想像さえできないくらい、まったく底が知れない。

 

第1部では奇妙な人たちが増え続け、現実がねじれていく。第2部ではその人たちと少しずつ関わりを持つようになる。そこにはいくらかの人間味があったりする。やはり妙な人間味だけど。

 

不登校の女の子(笠原メイ)は主人公を井戸の底に閉じ込める。底意は明確にされない。本人にもわかっていない。業の深い話もする。ただ、たぶん一番救われるべき人間として書かれている。救いがある。

 

預言者の妹は、普通には回復できなさそうな過去の話をする。でも、最後には作中の誰よりもしっかり立ち直って見える。

 

それからほぼすべての人が作中からいなくなる。演劇のステージの裾からすっとはけるみたいに。もう出てこないことが明言的に示される。

 

誰かに去られたあと、その場所に残ってひとりで生きるということのは、たしかに辛いことであると思います。それはよく承知いたしております。しかしこの世の中に、何も求めるべきものを持たない寂寥感ほど過酷なものを他にありません。

 

第3部では、第2部までの登場人物がほぼ出てこない。観念的な話が増える。繰り返し戦時中の満州のことなどが語られる。人間が根本に持ち得たり、もしくは図らずも行使され得る悪について。

 

一貫して圧倒的な悪意の存在が書かれていたのだと思う。だから第1部でも不必要なほどの暴力が表現されていた。それでも、それが圧倒的であれば一種の輝きがあり、強く嫉視する人もいる。あるいは運命のように、抵抗しても悪意の側に立たされた人も出てくる(個人的には間宮中尉が一番好きだし、そういう人は多いのではと感じる)。

 

解決はしている、たぶん。主人公のまわりの限定的な世界ではされているだろう。でも間宮中尉の話があるように、圧倒的な悪意が特殊的にのみ存在しているわけではない。それは戦争などによって偏在して顕現するとはいえ、いつでも存在し得る。大団円とは言い難い。

 

最後は「さよなら」という表題の項だった。とてもきれいな数ページ。ここまでの異様さをカバーできるかは人の感じ方によると思う。すごい小説だった。

 

さよなら、笠原メイ。僕は君が何かにしっかりと守られることを祈っている。