世界ではなく、近所の不条理 『庭』 - 小山田 浩子

 

「よせよ、二ヶ月前のトマトだろ」「そう思ったけど、大丈夫そう」妻は肘を突き出すようにして、汁が垂れないように首をひねったりしながらトマトを食べ、ズッズッと汁をすする音を立てた。「のど渇いてたの。おいしい」甘い青臭い匂いがした。確かに腐臭ではなかったが普通のトマトの匂いでもないような気がした。ふと見ると、赤ん坊がいつの間にか目を開け、のっそりと僕を見ていた。目の縁にまっ黄色い目やにがついている。

 

近くの人のことをふと奇妙に感じるということはあると思う。どんなに親しくてもその人になることはできない。どんなに子どもを愛しても、犬をかわいがっても、その対象が何を考えているのか、本当にはわからない。

 

それはしょうがない。僕たちはそういうことを、母親から離れる幼児期に理解する。それまでは母親と一体だと思っていたけれど実は違う。実は違うと、どれだけ母親を慕っても母親自身にはなれず、その感じようを知ることはできない。

 

それで僕たちは、相手の話しよう、動きや表情でその人の内在的意識を類推する。けれど、これはけっこうアクロバティックな芸当だと思う。確実なことに対して、推測などに頼る不確かな部分の割合があまりに多い。

 

小山田浩子の小説は、そんな不可知性のようなものが多く出てくる。すごく近い関係だけではなく、配偶者や離れて暮らす両親なども。彼らは割と近い関係なのに、別の経験を持ち別の知覚を持っている。当たり前だけどやはり奇妙だ。

 

毎日一緒にいても実は思いもよらないことを考えているのかもしれない。それは別に隠そうとか悪意とかではなく、お互いの思考を知れない以上は、ふとしたときに現前しうる不条理なのだ。

 

カフカだと世界と個人のあいだに生じる不条理を書くのだけど、近くの人とのあいだにふと現れる不条理もまた不気味に感じる。普段慣れていると思いがちな関係だけに余計かもしれない。

 

それは、久しぶりに帰省して、親は知っているのに自分は知らない村の奇習だったり、窓のヤモリへの対処のずれが夫婦に別の妄執を広げていく事態だったりする。あるいはもっと悪いと、犬は急に話し、幼児の子供に奇妙な思惑を看取する。

 

「犬が急に話す」のでたとえれば、部屋でたくさん遊んで、楽しかったけれど犬は疲れて眠る、ファンヒーターの風音と深夜テレビの絞った声だけが聞こえるところ、急に起き上がって喋ったら、という不気味さだと思う(これは例えで小説中にはない)。

 

大きなことは起こらずも、どこか奇妙で不気味な作品が多い。そういうのは僕は好きだ。僕たちが盤石だと思っている日常は、実はそれほど保証されているものではないと思い出させてくれる。

 

ただ作者のインタビューなんかを読むと、不条理とかを意識してはいないような節もある。読み方もさまざまなのかもしれない。

 

小山田浩子は1983年生まれの作家。『穴』で2014年の芥川賞を受賞。