『死んでいない者 - 滝口悠生』

どこかの山間部で葬式が行われる。故人の直系の兄弟や、さらにその子供などが集まり、思い出話などをする。親類は非常にたくさんいる。あまり脈絡なく、次々に出てくる。

 

それぞれの人間は個別の存在であるが、とりたてて突出したところはない。けれども、当然個性も背景もある。娘婿の白人男性が出てくる。子供がいて、親戚付き合いもしようとする。環境が違えばかなり強く排斥される可能性もあると思う。本人の性質や、まわりの環境に左右されるだろう。楽しそうに公衆浴場に行ったりする。

 

失踪した人間のことも語られる。酒癖が悪く、親戚に白眼視されている。その子供の目線からは、子供思いの父親だったりする。誰もそのことには思い至らない。おそらく、そういうことは子供を傷つけれるけれど、詳しくは語られない。生まれ持った根無し草の性質に、本人の苦悩で克己することは結局できない。

 

それから、故人の友人もいる。老人。故人との思い出にかなり触れられる。思い出を持って、去る側の世代だからだろう。確かにあったはずだけれど、細部を思い出せない記憶。前後の脈絡のない情景。思い出は最後には薄れるのではなく去っていく。思い出せないのではなく、存在したことに思い至ることさえなくなる。

 

だからふたりで海までの道を歩いた理由も経緯も思い出せない。あれは敦賀の駅からの道だ。理由も経緯も思い出せないし、歩きながら見た光景の断片と、歩きながら考えていたことのその内容も全部忘れてしまったが、輪郭というか抜け殻のようなものは残っている。それまでなくなってしまったらあの旅の記憶ももっと曖昧な、本当に行ったかのかどうかもわからないものになってしまうのだろうし、もうそうなってしまった旅や出来事がたくさんある。

 

記憶は去っていく。誰かを外形的に描くところの他の存在は、去るか、あるいは忘れていく。表題の意図はわからないけれど、誰もがまだ死んでいない存在であるのだろう。

 

故人と2人で住んでいた、まだ若い元不登校児が出てくる。ステレオタイプと違い、友人と付き合い、自分の音楽をネット上にあげたりしている。祖父の死を追悼するらしい曲をアップする。

 

親類はたくさんいるので、去っていく側の人も、来たばかりの側の人もいる。すべてが間もなく、消えて平らかになるわけでもない。