憂鬱の澱

夜の10時になった。もっと深い夜があることはもちろん知っているけれど、その時間を楽しむのはもはや難しい。明日の仕事のことを考えないといけない。深夜2時に、世界が自分だけのものになったような感覚を味わうのは、年々ハードルが高くなる。習慣的な眠気にも抗えなくなる。そんなわけで、夜の10時を、疑う余地のない夜として過ごしている。

換気扇の回る音しかしない。昼間も音なんてなかったものの、窓から見る風景にはそれなりの変化があって、存在を感じさせる確かなものがあった。今はカーテンを引いているし、そもそも窓の外に何かが見えるような時間ではない。この辺は真っ暗になる。とてつもなく一人だ。満足している。

家族は寝た。僕は居間で氷結を飲んでいる。本当は、もっといい酒を飲みたいけれど、潤沢な金を持っているわけでもない、氷結に対して強い不満を持っているわけでもない。より良いものがあることは知っている。何も見ないで生きてきたわけではない。

さっきまでテレビを見ていた。レコーダーがないので見たい番組は滅多に見られない。ビデオデッキがほしい、と友人に話したら、ずいぶんクラシカルなものを欲しがる、みたいな話題になって、今ではそれがレコーダーと呼ばれることを知った。電気屋に行って、値段を見て買うのをやめた。少なくともテレビはあるのだ。それだけでも、何年か前よりマシじゃないか、と。

番組を見終わって、テレビを消したら静かさが増したように感じる。すごく孤独なのかもしれない。これはtips。有用でありうる。発音が分からなくて、カタカナで書くことができなかった。チップス?

進むところのない感情が、澱のように溜まって、本来空気みたく触知できないはずなのに、今ならそこにあるのが理解できる。いつでも付きまとう薄い憂鬱は、多分こういうものが原因になっている。日記を書くのが精神療法のようなものだと、僕が感じるのはきっと間違っていない。何か行き違っている可能性があるとすれば、それが果たして療法になっているかの部分だろう。どうだろうね。治してどうする。大人になっても、結局常に憂鬱のままだったのに。

ここでは何もかもが揃っている。すごく豊かなわけではないけれど、取り立てての不足はない。屋根がある、氷結もあるし、仕事もある。それから憂鬱があった。

この辺が習い性になっていない人に実感してもらうのは難しいだろう。ただ、言うなれば、憂鬱とは、それを常時持っている人にとっては快楽になりうる。出てこられなくならない程度に持っておく、という手はある。目を逸らして、存在しないことにしても、空気は常に身の回りにある。

酔いが回らない。あるいは気がついていないだけなのか。飲む量が足らないのか。失った月日に押しつぶされつつあるのか。差し引きで見れば、得たものは失ったものよりはるかに多いだろう。それでも失った、という厳然とした事実が贖われるわけではない。つまり、それらは個別の問題なんだ。

コラージュみたいな文章だ。もしくは僕が書く文章の構造のせいではなく、僕の持つ感情がコラージュじみているいるのか。さらには、誰が持つ感情であってもコラージュのようなものなのか。他の人のことは分からない。知りたくてしようがないけれど、知りようがない。知れないのは、あなただって同様のはずだ。

寄る辺がない。ぴったりと収まる場所がない。四角い箱に楕円状のものを収めようとしているように。適切な量を、隙間なく収納することはできない。不足にあえて目を瞑るか、過剰か。

どうやらこれは療法ではない。でも、どうだろう。試してみないことを、この段階で断言できたものか。経過を観察する、という方法がある。澱は溜まっていく。深海に積もっていくマリンスノーのように。あれはとても美しい。