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フラクタル日記

季節が秋から冬へ、それから春へ、桜が咲いて散った。あっという間だった。思ったより長い間、花は持つのだな、とは思ったけれど、やはり気がついたら季節は変わっている。最近は少し暑くなってきて、長袖のシャツ1枚で外に出て、夜になってから肌寒さに震えたりしている。時間の流れに意識が追いつかない。たまに気がついて、急いで追いつこうとすると的外れなところに立っていたりする。

はてなダイアリーはてなブログへの移行を進めるようになって数年が経っていた。今日、ようやく移行をする決心をして、手続きを進めたら、過去の記事は自動では移らないことが分かった。インポートとかエクスポートをしないといけない。そこまでして移す必要はないのではないかと思っています。心機一転して、個人的な日記を書く。

個人的な日記というジャンルがかつては確かにあったのだけど、今でも健在なのだろうか。どう見ても頭のおかしい人たち、しかも何も成し遂げていない人たち(若いから)が書く、個人的な日記を面白がって読む習慣が自分にはあった。読む側としての優越感や、日々更新される日常の混乱への羨望もあった。

そんなこと(それらの存否)はもちろん知らない。確かめようがない。当時はそういう文化に曲がりなりにも浸っていて、多少の交流を持ち、自然に情報が入ってきた、そのルートが今はないから。頑張れば独力でも面白い日記は見つけられるだろうけど、そこまでして、という気持ちが先立つ。あの頃、日記で好きだった人のほとんどは、まともな社会人になって、SNSでたまに見かける程度、何人かはどこにいるのかも分からず、何人かはしっかりと、未だにまともに生きていない。

「まともに生きない」ということに一定の価値を感じる宿痾のようなものを持ち続けている。そう感じてしまう時点で、僕自身は「まともさ」を基礎としているのだろう。真っ当な基礎の上に不健全な構築物が建っている。懊悩はアンバランスさから生まる。本来は、不健全な基礎の上には不健全は構築物があるべきだし、逆も同様だろう。けれど、一度意識した後でも、そこまで一貫して生きていられるのだろうか。僕は無理なのではないかと思う。ジュブナイル的な問題でもない。一度意識したら、今後の生活の全般に渡って、そのアンバランスはある程度の影響を、ある人に広範に与え続ける。

ところで、僕は今、コーヒーをすべて飲んでしまった問題を抱えています。タバコはすぐに吸えるからいいよ。コーヒーは時間がかかる。面倒くさい。円を描くようにお湯を注ぐ。動画で見た。違いが分かる気はしないけれど、一応やる。気持ちの問題だと思ってる。そしてこれは中毒による要求なんだ。

コーヒーを入れました。あと、寒かったからシャツを着た。ドリス・ヴァン・ノッテンのパンツに、ドリス・ヴァン・ノッテンのシャツ。そう書くと金がかかっているようだけど、何年も同じものを着てる。色合いも変だし、柄物同士だから、この組み合わせで外に出ることもできない。ただ、寒くはなくなった。

日記がやたら続くのは、外に出る気が全くないからです。全体を読む人はおそらくいないだろう(僕自身は当然読むが)。それでも、この日記は一種のフラクタル構造になっているので、部分を読めば全体を読んだのと変わらない。1段落読んだことが全体を読んだことと、本質的な差異を持たない。すごいな。一見すると、言っていることがホルヘ・ルイス・ボルヘスみたいだ。

今日は4月30日の日曜日、人によっては、ゴールデンウィークの2日目。外はいい天気で、なんだか分からない、笹みたいな植物が風に揺れてフラフラしている。鳥が飛んでいる。それから数百メートル先の雑木林。これはゴルフ場の目隠しになっていて、雑多な木が生い茂っているのだけど、驚くほど美しくない。統一性のなさが原因になっている。自然が持っている、統一性のなさを包含した美しさも当然ない。せめて同じ種類の木を植えておけばよかったのに。

ここまでで約一時間、机に座って云々と書いている。なぜ。僕自身は得をすると思っている。何かが生まれるかもしれないと信じ続けている。ある種の精神療法のように。生きていることに意味はなくても、個人的な意味を見出すことへの執着を捨てることはできない。

でも、この辺で一度やめようと思う。長く書いてみて分かったのだけど、だんだんと全体の不整合が際立つようになってくる。おそらく頭の中の整合が取れていないから。鳥は今も飛んでいます。すごい近い。そのうちに窓に突っ込んでくるのではないだろうか。飛び散る鳥の破片。一瞬間、精神はピークを迎えて、その後で嫌な気持ちになる。フラクタルな構造を途中から意識してみたのだけど、果たしてどうだったのか。そして、仮に為しえたとして、それは誇るべきことなのか。日常のフラクタル、人生のフラクタル、それが日記に反映される。