太りたくない

ジンバブエドルをお土産にもらった。単位が日本円だったら、ネジを飛ばさなければゆうに一生暮らせるような金額だけど、たぶん100円くらいの価値もない。こんなもののために、愚痴を言いながら働いたり、無駄遣いに悩んだり、将来のために切り詰めるとか、いろんな人生があるのだなと思う。ところがそれは、本当の意味では持ちたるもののだけが感じるそれで、僕にだって当然お金は大事だ。

億単位のお金を持った僕は、夕方に川沿いの道を歩いた。太らないためには、計画的にスケジュールされた運動が必要だ。トレーニングをして、食事を節制、消費カロリーも活動量計で測る。そういうのだって若い頃の僕なら鼻白んでいただろう。管理された家畜みたいだって。お金と同じだ。それはとても大事なことで、誰にも避けて通れないはずなのに。学生の時分に特有な万能感で、己だけは特別なような気になってしまう。そんなことはないのだけれど。そして、薄っすら予感していたりもした。

将来に対する悲しさを帯びた予感は概ね実現した。こうなってしまうのかな、という類のものだ。違ったのは、思っていたほどに悲しくはない、ということ。僕のポケットには億単位の金が入っている。太りたくなくて川沿いの道を歩いている。夕暮れの砂利道の向かう先は工事サイト。回転灯が通行禁止と迂回路を知らせる。そういうのには、それなりのおかしみがある。

5月

ゴールデンウィークがやって来て終わった。実質的にすでに終わっているのだけど、まだ何かできるのではないか、と考えてしまう。旅行の最終日の夜のようだ。

本棚から村上春樹の短編集を選んで読んでいる。未だに感心するものもあるし、ちょっとなあ、と思うものもある。何十回も読んでいるから。あと、歳をとったというのもある。いつまでも学生の頃の気持ちで読むことはできない。

連休中は外にいることが多かった。5月は外出するのに一番いい時期なのではないかと思う。暑くもないし寒くもない。天気はいい。あとに来るのは夏だ。

夏が好きなわけではないけれど、やはり特別な季節だと感じる。チョコレートで言えばゴディバみたいに。

友達の家でバーベキューをやった。日陰に座っていたはずなのだけど、日が傾いていって、だんだんと夕日がまぶしくなった。向かいの家は今は空き家で、たぶん築50年くらい。その屋根の上の夕日。

明日から平日。ビールを飲んでる。

カナヘビ

カナヘビの話をしていて、カナヘビの喧嘩を眺めていたことがあったのを思い出した。簡単に睡眠のリズムを崩すので、その晩には眠れなくなる。特にそれがすぎた日に、窓辺でタバコを吸いながら朝を迎えて、始発の電車が走り始めるのを聞いている最中、カナヘビが喧嘩していたのだった。

だから何ということはない。とかげの喧嘩なんて、街でのおじさん同士の言い争いほどにも印象に残らない。今日までずっと忘れていた。机の引き出しに入っていた特に役に立たないもののように、取り出してなぜこんなものが、と少し考えて、またしまう。元どおり。

ある日、月がとても大きかった。とても不思議な光景だろう。それも忘れてしまう。月が大きく見えるのは、低い空にある時で、周りの構造物と遠近で比べる心理的な効果によってそう感じるのだそう。それでも不思議は不思議のまま。

滅多に閉じない踏切。一度だけ、とても長い貨物列車が通り過ぎるのを待っていたような気がするのは記憶の混乱なのか。延々と続いた。海に向かう道の車列。その先のゲート。倉庫街と猫。暇を持て余した倉庫番。どこからかは明らかに空想が混濁している。閾は最早分からない。

全ては静かだった。夏のとてつもなく暑い日で、ようやくたどり着いたと思った場所は海というより河口。対岸までは1キロ以上はありそう。建設中の高層マンションの下。これから使われるはずのボードウォークを歩いた。あれはよかった。水上の船の方から、金属質のものを叩く音がしていた。ずっとしていた。

誰かが何かを言う。何だっけ。「この先は通れません」とか、そういう類の言葉だった。この先は通れない。寓意に満ちた表現。

カナヘビは喧嘩をしていた。机の引き出しには、たくさんの「この先を通らなかった」の具象化が眠っている。たまに取り出す。捨てさえしなければ、とりあえず、しばらくはそれができるはず。

割れる木

空が暗くなって、昼過ぎなのに急に夜がきたみたいで、SF小説ならば何かが起きる象徴的な場面になるな、と思っていたら大雨が降った。雷が落ちた。室内からの音と風景だけからするとお祭りのよう。

その後はすっかり晴れて、何事もなかった風情。

クリムトの名前が思い出せないことについて考えていた。「接吻」で調べたら何だかよく分からない画像がたくさん出てきた。戸惑った。確かに「接吻」はクリムトの独占的名辞ではない。

雷の落ちた場所は探せなかった。周辺の電気系統などに影響を与えていて、範囲が限定的なのだから、近くに落ちたのだと思うのだけど、痕跡は発見できない。ただ、雷がどのように落ちるのか、それを見て特定できるのか、僕は知らないし、案外すぐそばを通っていたのかもしれない。場合によっては、期待したものはそこにあった。そして、それに気がつくことができなかった。

そう言えば、大雨の降っている場所の空には積乱雲があるらしいから、遠くから見れば、多分僕たちはモクモクした雲に覆われていたのだろう。そこに雷が落ちて、しばらくして落ち着くと、何人かの人間が出てきて焦げ跡を探す。

探されていたものは雷の痕跡。まだ弱く降る、霧雨のなかで、割かれた木が煙を吹いている。実際には晴れていたのだけど。そして僕は何も見つけなかった。いつも通り。

憂鬱の澱

夜の10時になった。もっと深い夜があることはもちろん知っているけれど、その時間を楽しむのはもはや難しい。明日の仕事のことを考えないといけない。深夜2時に、世界が自分だけのものになったような感覚を味わうのは、年々ハードルが高くなる。習慣的な眠気にも抗えなくなる。そんなわけで、夜の10時を、疑う余地のない夜として過ごしている。

換気扇の回る音しかしない。昼間も音なんてなかったものの、窓から見る風景にはそれなりの変化があって、存在を感じさせる確かなものがあった。今はカーテンを引いているし、そもそも窓の外に何かが見えるような時間ではない。この辺は真っ暗になる。とてつもなく一人だ。満足している。

家族は寝た。僕は居間で氷結を飲んでいる。本当は、もっといい酒を飲みたいけれど、潤沢な金を持っているわけでもない、氷結に対して強い不満を持っているわけでもない。より良いものがあることは知っている。何も見ないで生きてきたわけではない。

さっきまでテレビを見ていた。レコーダーがないので見たい番組は滅多に見られない。ビデオデッキがほしい、と友人に話したら、ずいぶんクラシカルなものを欲しがる、みたいな話題になって、今ではそれがレコーダーと呼ばれることを知った。電気屋に行って、値段を見て買うのをやめた。少なくともテレビはあるのだ。それだけでも、何年か前よりマシじゃないか、と。

番組を見終わって、テレビを消したら静かさが増したように感じる。すごく孤独なのかもしれない。これはtips。有用でありうる。発音が分からなくて、カタカナで書くことができなかった。チップス?

進むところのない感情が、澱のように溜まって、本来空気みたく触知できないはずなのに、今ならそこにあるのが理解できる。いつでも付きまとう薄い憂鬱は、多分こういうものが原因になっている。日記を書くのが精神療法のようなものだと、僕が感じるのはきっと間違っていない。何か行き違っている可能性があるとすれば、それが果たして療法になっているかの部分だろう。どうだろうね。治してどうする。大人になっても、結局常に憂鬱のままだったのに。

ここでは何もかもが揃っている。すごく豊かなわけではないけれど、取り立てての不足はない。屋根がある、氷結もあるし、仕事もある。それから憂鬱があった。

この辺が習い性になっていない人に実感してもらうのは難しいだろう。ただ、言うなれば、憂鬱とは、それを常時持っている人にとっては快楽になりうる。出てこられなくならない程度に持っておく、という手はある。目を逸らして、存在しないことにしても、空気は常に身の回りにある。

酔いが回らない。あるいは気がついていないだけなのか。飲む量が足らないのか。失った月日に押しつぶされつつあるのか。差し引きで見れば、得たものは失ったものよりはるかに多いだろう。それでも失った、という厳然とした事実が贖われるわけではない。つまり、それらは個別の問題なんだ。

コラージュみたいな文章だ。もしくは僕が書く文章の構造のせいではなく、僕の持つ感情がコラージュじみているいるのか。さらには、誰が持つ感情であってもコラージュのようなものなのか。他の人のことは分からない。知りたくてしようがないけれど、知りようがない。知れないのは、あなただって同様のはずだ。

寄る辺がない。ぴったりと収まる場所がない。四角い箱に楕円状のものを収めようとしているように。適切な量を、隙間なく収納することはできない。不足にあえて目を瞑るか、過剰か。

どうやらこれは療法ではない。でも、どうだろう。試してみないことを、この段階で断言できたものか。経過を観察する、という方法がある。澱は溜まっていく。深海に積もっていくマリンスノーのように。あれはとても美しい。

夜と川

今日という日を、4月最後の日である日曜日の午後を、ゲームのプレイ動画を見ながら、半分寝たまま過ごした。過ごしてしまった。ニコニコで動画を見ていると大体眠くなる。そういう問題ではない。おそろしく無駄な時間を過ごしているという感覚がすごい。

今は午後の6時半。これから何かをするのは困難だ。二時間かけてどこか明るい街に出ても、もう完全に夜だし、明日のことを考えてしまう。家路につく人たち、商店は閉まっていって、1日の終わりにあることを意識する。

そういう時間帯がかつては好きだったのだけれど。例えば、夜の隅田川沿いとか。たくさんの集合住宅と明かり。意外に足元は暗い。クラクラするくらいの数の人間が生活をしているはずの一帶で、すれ違うのはほんの何人か。屋形船が係留されている。使われているのを見たことは、確かなかった。

僕が現在住んでいるのは田舎だ。だから、ちょっとした気持ちで外に出る気にはならない。そういうことにしておこう。遠いところに行くのには理由がいる。昔から必要だったのかは、はっきりとは思い出せない。

夜は深くなればなるほど、誰かが相対化される蓋然性を減らす。なぜなら人が減るから。

僕は風呂場でこれを書いている。風呂に入りながら日記を書くおかしさへの自覚はある。それはとにかく、僕が今ある環境というのは、自宅の風呂場で浴槽のなか、かなり内にこもった状況にある。そこから隅田川のことを考えている。物理的には100キロ近く離れた、小さな矩形の中で。

100キロ先の川沿いの道に、この瞬間に意味もなくブラブラしている人というのがいるのだろうか。少し早く来すぎたかな、と考え、川の対岸を眺めて、彼には(女の人でもいい)地理の知識がまったくないものだから、そこが東京都のどの辺りに当たるのか分からない。倉庫と高層マンション。たまに見かける野良猫は前者に属している。だから、そのうちに見かけなくなるはずだ。川面に浮かぶ歪んだ生活の明かり。

もし誰かがこれを読んでいて、今が夜で都会の只中で、僕と似たようなことを感じる人間なのであれば、たった今においてはあなたは特別な存在なのだと思う。僕は浴槽の中からそれを期待している。

 

フラクタル日記

季節が秋から冬へ、それから春へ、桜が咲いて散った。あっという間だった。思ったより長い間、花は持つのだな、とは思ったけれど、やはり気がついたら季節は変わっている。最近は少し暑くなってきて、長袖のシャツ1枚で外に出て、夜になってから肌寒さに震えたりしている。時間の流れに意識が追いつかない。たまに気がついて、急いで追いつこうとすると的外れなところに立っていたりする。

はてなダイアリーはてなブログへの移行を進めるようになって数年が経っていた。今日、ようやく移行をする決心をして、手続きを進めたら、過去の記事は自動では移らないことが分かった。インポートとかエクスポートをしないといけない。そこまでして移す必要はないのではないかと思っています。心機一転して、個人的な日記を書く。

個人的な日記というジャンルがかつては確かにあったのだけど、今でも健在なのだろうか。どう見ても頭のおかしい人たち、しかも何も成し遂げていない人たち(若いから)が書く、個人的な日記を面白がって読む習慣が自分にはあった。読む側としての優越感や、日々更新される日常の混乱への羨望もあった。

そんなこと(それらの存否)はもちろん知らない。確かめようがない。当時はそういう文化に曲がりなりにも浸っていて、多少の交流を持ち、自然に情報が入ってきた、そのルートが今はないから。頑張れば独力でも面白い日記は見つけられるだろうけど、そこまでして、という気持ちが先立つ。あの頃、日記で好きだった人のほとんどは、まともな社会人になって、SNSでたまに見かける程度、何人かはどこにいるのかも分からず、何人かはしっかりと、未だにまともに生きていない。

「まともに生きない」ということに一定の価値を感じる宿痾のようなものを持ち続けている。そう感じてしまう時点で、僕自身は「まともさ」を基礎としているのだろう。真っ当な基礎の上に不健全な構築物が建っている。懊悩はアンバランスさから生まる。本来は、不健全な基礎の上には不健全は構築物があるべきだし、逆も同様だろう。けれど、一度意識した後でも、そこまで一貫して生きていられるのだろうか。僕は無理なのではないかと思う。ジュブナイル的な問題でもない。一度意識したら、今後の生活の全般に渡って、そのアンバランスはある程度の影響を、ある人に広範に与え続ける。

ところで、僕は今、コーヒーをすべて飲んでしまった問題を抱えています。タバコはすぐに吸えるからいいよ。コーヒーは時間がかかる。面倒くさい。円を描くようにお湯を注ぐ。動画で見た。違いが分かる気はしないけれど、一応やる。気持ちの問題だと思ってる。そしてこれは中毒による要求なんだ。

コーヒーを入れました。あと、寒かったからシャツを着た。ドリス・ヴァン・ノッテンのパンツに、ドリス・ヴァン・ノッテンのシャツ。そう書くと金がかかっているようだけど、何年も同じものを着てる。色合いも変だし、柄物同士だから、この組み合わせで外に出ることもできない。ただ、寒くはなくなった。

日記がやたら続くのは、外に出る気が全くないからです。全体を読む人はおそらくいないだろう(僕自身は当然読むが)。それでも、この日記は一種のフラクタル構造になっているので、部分を読めば全体を読んだのと変わらない。1段落読んだことが全体を読んだことと、本質的な差異を持たない。すごいな。一見すると、言っていることがホルヘ・ルイス・ボルヘスみたいだ。

今日は4月30日の日曜日、人によっては、ゴールデンウィークの2日目。外はいい天気で、なんだか分からない、笹みたいな植物が風に揺れてフラフラしている。鳥が飛んでいる。それから数百メートル先の雑木林。これはゴルフ場の目隠しになっていて、雑多な木が生い茂っているのだけど、驚くほど美しくない。統一性のなさが原因になっている。自然が持っている、統一性のなさを包含した美しさも当然ない。せめて同じ種類の木を植えておけばよかったのに。

ここまでで約一時間、机に座って云々と書いている。なぜ。僕自身は得をすると思っている。何かが生まれるかもしれないと信じ続けている。ある種の精神療法のように。生きていることに意味はなくても、個人的な意味を見出すことへの執着を捨てることはできない。

でも、この辺で一度やめようと思う。長く書いてみて分かったのだけど、だんだんと全体の不整合が際立つようになってくる。おそらく頭の中の整合が取れていないから。鳥は今も飛んでいます。すごい近い。そのうちに窓に突っ込んでくるのではないだろうか。飛び散る鳥の破片。一瞬間、精神はピークを迎えて、その後で嫌な気持ちになる。フラクタルな構造を途中から意識してみたのだけど、果たしてどうだったのか。そして、仮に為しえたとして、それは誇るべきことなのか。日常のフラクタル、人生のフラクタル、それが日記に反映される。