ドイツ人は部屋をとても綺麗にするらしい。何十分もかけて掃除をするそうだ。僕は別にドイツが好きなわけでも、言うなればドイツの何かを知っているわけでもないけれど、汚れきった部屋を見て、ドイツ人のようになろうと思った。大学生の頃の第二外国語で習ったわずかな知識と、浦沢直樹の漫画を思い出して、心にヨハンを宿した。今日の午後を通して部屋はわずかに綺麗になった。元の酷さを考えれば「格段に」と言ってもいいかもしれない。そう言うのを、相対的に捉えるべきかどうか。そして心の憂愁は晴れない。部屋の汚さが明け渡した憂いを他の何かがすぐに埋める。性格の特性としか思えない。近所の松屋にご飯を食べに行くのさえ逡巡する。カップ麺をじっと見つめる。こんなものでは腹は満たされない。出かけた。松屋のカルビ定食はうまかった。ちょっともたれたけれど。誰にも会わずに生きていきたい。でもそれが叶ったあかつきには、憂愁は全身に広がるだろう。

 

「東雲」というのは、明け方に東の空がうっすら色づくことを言うのだそうだ。今日、知って唯一よかったことだ。「しののめ」と読む。あとの時間はYouTubeで動画を眺めてた。毒にも薬にもならない。

遠くに入道雲。あの下では豪雨なのだろうと思うとなんだか変な気分になる。なにせこちらでは、夕方になってもとんでもなく暑いのだから。もう落ちかけてる太陽が、残る力のすべてをありったけぶつけてくる。

 

気がついたら夏が終わりかけていた。子どもは宿題を終わらせたのか聞かれる頃。大人になった僕は、夏も妙に忙しくて、この暑さがいつから始まって、いつの間に終わりつつあるのか、今ひとつピンとこない。

 

公園で帽子を力のかぎり高くまで投げた。楽しかった。帽子は上空でくるくる回る。戻ってきそうで戻ってこない。

引越しをして、ネットに繋げる環境がなくなった。転居の手続きをしたら、最短の工事は1月以上後になる、でもなんとかなるかもしれないから待ってほしい、と言われてからかなりの日数が経った。家でネットに繋げないから困るということもない。ないことには容易に慣れる。冷蔵庫には慣れない。家に巨大な冷蔵庫があることの違和感。電子レンジにも洗濯機にも、蛍光灯にも出勤にも、ふとした時に拒否したくなる感情がある。最後のが一番ある。そして一番御し難い。

 

今はスタバにいるのでWi-Fiに繋がる。ネットができる。暮れていく横浜スタジアムと、関内の道を行く車のテールランプを眺めながら、持参したMacBookでインターネットをする。誠に鼻持ちならない人間のようだ。ただ、僕にはヤフーニュースを見て、アップルミュージックから音楽をオフライン用にダウンロードするくらいしかやることはない。本当のこのような環境に最適化された人間ならば、ノマドならば、こういう場所で何をやっているのだろう。生産的な何かか。生産て何だ。

 

時事的な話を書いておこう。今日は、どこかのアメフト部の反則行為の話題が頻繁に交わされるよう。こういうのは後々に目にすると楽しいから。楽しいのか、懐かしいのか、寂しいのか、それはその時による。過ぎたことを目にしてどう感じるか。意味のないことばかり書いてあるな、と思うのが大体。たまには取り戻し用のないものの数々を目の前にして愕然とすることもある。蓋をして置いたはずのものが飛び出している。あとのニュースはよくわからない。わかったとしても、懐かしい気持ちになれそうなものは見当たらない。

 

スタジアムの公園で子どもが遊んでいる。なぜこんな時間に。もう外は暗い。あの子たちは昔のことをふとした時に思い出して、悲哀を感じるだろうか、それとも暖かさだけを身内に感じるだろうか。人間同士は話せばそれなりには分かり合えると思う。それでも自ずと限度があって、たまに前提が異なる場所に立っているということもある。たまに、というか頻繁かもしれない。

最近は毎朝6時に目が覚めるようになった。そこから30分かけて、だいたいは2度寝をしてから寝室をでる。多くの人にとっては普通の起床時間かもしれないけれど、家と職場がわりに近い僕にとっては早い。ボトルに入れるぶんと朝のうちに飲んでしまうぶんのコーヒーを入れる時間の余裕がある。窓から外を眺めることもできる。春はまだ来ていない。畑の向こうに雑木林の広がる殺風景な眺めだ。そもそもこの景色は冬だろうと夏だろうとそんなには変わらない。人はある程度の年齢になると変化のないことに安心を覚えるようになるらしい。確かに今、窓の向こうが一面の花畑にでもなっていたら、多少は嬉しくとも戸惑うだろう。鳥が飛んでる。

すごく寒い。だけど、今は寒さが強調される最後の時期だ。たぶん。毎朝タイマー機能によってエアコンが起動し始めた音で一度目が冷める。カチッ。ブオオーン。

 

ヒートテックの下着を身につけて、コートの上にはさらにレインコートも羽織る。原付のガソリンは昨日入れたばかりだ。行こうと思えばどこまででも行ける。タンク容量の問題でせいぜい100kmくらいしか走れなくても。想像のうえではどちらにしろ、それはどこまででもだ。

 

南のほうは暖かいと聞く。

夕食をとって、リビングの椅子に座って白熱灯の下で本を読む。1日が終わるのを待っているみたいだ。なぜそういう気持ちになるのかはわからない。時計を見る。この先の1時間半を何をして過ごすか決めないといけない。考えようによっては寝るまでに残された時間はそれくらいしかない。人には基本的に働く必要があるのだから。じゃあなぜこんな風に、明日を待つような心境でいるのだろう。間違いなく、仕事を楽しみにしているわけではない。

 

それは思春期の子供が何か楽しいことがないかな、と思うあの気持ちからそれほど隔たっていないのかもしれない。校庭の隅やコンビニの前で変化を予感していた。そして決定的な変化が誰をも何者かにしてくれる。大人はパソコンのキーボードで指先から摩耗していく。薄っぺらなのではなく、削られていっているのだ。

 

今日も、これから30分もしたら繰り返される摩耗に向けて家を出る。人生を理解する。それはかつて感じていたほどに悲観するものでも、歓迎できるものでもない。少しずつ鈍くなっていく。そして静かになる。遠くまでずっと広がる草原みたいなものだ。悪いものでもない。視界の果てには燎原の火。

急に目が覚めたので時計を見たらまだ5時50分だった。そこからもう一度寝ようとしたのだけどできなかった。コーヒーを入れて朝の準備をしても今は7時。仕事に出かけるのに1時間くらいある。

 

たぶん、仕事上の人間関係の問題が心にかかっていて、うまく寝つけない日がある。それが今度は目が覚めるという形で出たのだろうか。そうだとしたら、寝られないよりは目が覚めるほうがいい。ここには焦りがない。早朝の日の出を見る。あれを夜と言うのか、朝と言うのかは、その人の生活のパターンによる。僕にとっても、かつては早朝は寝る前の最後の時間だった。

 

家の中から見ている分には、外の光、空気の動きやなんかはもう春だ。だから外に出て寒さに戸惑う。眠気はまだある。

 

千葉に行って灯台を見た。灯台では夕日だった。夕焼けの中の逆光の灯台もいくらかはまぶしい。雲の輪郭が黒く縁取られる。そういったものをイメージして生きることはどうやらできる。