スタバ問題

いつも行く駅前のスタバで、たまにはラテ以外のものを頼んでみようと思って、カプチーノを飲んだ。甘くて苦手だった。何が違うのかと思う。ラテもカプチーノも、エスプレッソに牛乳を入れているのではないのだろうか。

 

オシャレなものが好きなはずなのに、心から馴染むことができない。カフェミストというものも頼んでみたいけれど、味の想像もつかない。インターネットで調べてみた。何でも分かってしまうのだから、ネットはすごい。

 

インターネットによると、カプチーノは泡立てたミルクを使っているらしい。ラテは泡立てないミルクを使う。ベースがエスプレッソなのは同じ。そして、それはよくある疑問のようだった。カフェミストはカフェオレのことだそうだ。つまりコーヒー牛乳。

 

好きなものだけを選んでいれば安心なのではないかと考えてきた。好きなものは好きなのだし、失望することはない。わざわざチャレンジして危険を冒す必要はないのではないかと。駅近くの定食屋ではロース焼肉丼、すき家では3種のチーズ牛丼、酒は氷結。

 

それなのに、最近になって急に、違うものを試してみたいという欲求が沸き上がるようになった。僕の後ろには、選択されなかった素晴らしいものが、幾つも幾つも手つかずのまま放置されているのではないかと感じるようになったのだ。

 

結果はあまり芳しくない。3種のチーズ牛丼は美味しい。わざわざ高菜に手を出す必要はなかった。そもそも牛丼を食べる機会自体が減りつつあるというのに。

 

他もだいたいが同じだ。例外的にオーセンティックなバーで飲むカクテルは美味しかった。ただ、オーセンティックなカクテルは値段がとても高い。日常的には氷結を飲むべきだ。

 

それでも僕は試そうと思う。どこかにきっと未発見の沃野が広がっている。そこでは果実がたわわに実り、馥郁たる香りに溢れていることだろう。そしてそれはより重要なことのメタファーなのだ。僕は次も違う種類の牛丼を選ぼう。

簡単に揺れる心を持って生まれてきたので、大人になった今でも安定しきらない。さすがに青空を見上げて不安になったり、一面の菜の花畑を前にしてこれから先を生きられるか考えたりはしなくなったけれど、ふとした時に急に精神が揺らぐ。そういうことはなかなか変わるものではないらしい。

 

問題なのは、なんとなくそれを糊塗できるようになってしまったことで、そのために僕は随分とちぐはぐな人間になってしまった。加えて年月を経ることで体は大人、振る舞いもそれを前提にして、と意識するごとに、さらに動きはわざとらしくなる。滑らかに、思うがままに行動することができない。思っていること、とはなんだろう。思っていることを思おうとしていないだろうか、となる。頭の中に小さな人形がいて、その人形の頭の中にさらに小さな人形がいる。それが続く。

 

綺麗な青空は綺麗だな、と感じるようになった。そこに含意は見出そうとする必要はない、ということは理解できるようになった。

 

それでは、うつむきながら歩く老人はどうだろう。住宅街の中にポツンとある蕎麦屋の存在はどうだろうか。

 

どこかに不安などない世界があるのだろう。そしてそれは誰かの心の中にある。不安にあふれた世界と不安のない世界は、一つのところに共存することはできず、基本的に、前者がある日を境に後者になることもない。現にあるものの中で生きるしかない。

 

今日、外はとても寒かった。寒くなると不安にはなるけれど、なんでもないような景色を綺麗に感じたりする。枯れた丈の高い草が風にそよぐところとか、窓から射す陽とか。そういうことを繰り返してきた。ちぐはぐにはなってしまったけれど、総じて良くなっているのだと思ってる。

山下澄人という人が書いた「ギッちょん」という小説を読んだ。

 

夢の間にあるような話が多くて、何が実際にあったことなのか判然としなくなる。そもそも語りが一人称で、その人の視点が常に混乱している。

 

混乱している、という表現が正しいのかはよくわからない。どちらかというと、ある出来事を後から思い出したときに細部があやふやになっていたりする、それがとても大事な部分(人物とか出来事まで)にも及んでいる感じ。

 

結果的に読んでいる方は混乱する。

 

例えば、表題の「ギッちょん」は、主人公の子供の頃から死ぬまでを、時系列をバラバラにして断片で繋ぎあわせたような作りになっている(断片によっては何度も繰り返す)。「ギッちょん」は主人公の子供の頃の親友で、年を取ってからの主人公の前にも度々現れるのだけど、彼がそもそも実在していたのかさえよくわからない。

 

いたと言えばいたようだし、いなかったと言う方が確からしい気がする。

 

「ギッちょん」は主題だと思う。題名なのだから。それが実際にいたのかいなかったのかわからない。最後まで明言しない。

 

とてもおもしろい小説だった。この手の作り方をした小説で、技巧にはやって鼻につく感じにならないのはすごいと思う。

 

全部で4編の話でできている。間の2つは訳がわからないのを本気で受け入れないと楽しめないので、好き嫌いは分かれそうだけど、最初と最後はぎりぎり普通の小説として読めるはず。たぶん、ぎりぎりで。

toeicの試験を受けてきた。

 

思い立って先々月に受けたのに続いてのテストだったのだけど、相変わらずよくわからない。前回も同じだったので、もはや驚かない。前回と今回で感じたことを箇条書きにする。

 

・リスニングが聞き取れない。聞き取れるときもあるのだけれど、出だしで躓くと、ヒスパニックがスペイン語で話していたのではないかと思うくらいに聞き取れない。

 

・ぜんぜんダメだったと落ち込んだのに、思ったより点は取れている。つまり、相当の高得点が取れるようにならなければ、失望が常につきまとう。

 

・リーディングが全く時間内に解き終わらない。終わらないとわかっているのに終わらない。少しでも悩むところは流した方がいいのだろう。ただし、それはとても難しい。

 

toeicのテストは大学などで行われる。なんだか学生の頃を思い出して、それだけでも割と楽しい。

 

学生の頃の僕は頭は良かったけれど、どこかに所属しているという考えが苦手で、テストも苦痛だった。今はテスト自体ができない。学校はむしろ好きになっていた。

 

会場の大学が駅から微妙に遠いのは、僕が通っていたところと同じだった。そこを歩く朝ごとに、今日は何かおもしろいことがあるかもしれない、と考える時間だけはたくさんあった。実際にはそんなものが向こうからやってきたりはしない。

 

それだけのことを理解するのにも、結構な時間がかかった。toeicは二ヶ月に一回くらいのペースで受けに行こうと思ってる。

 

たき火が好きだ。たき火が好きなのは、火が燃えているから。そうとしか言いようがない。それは太古からの欲求のようなもの。

 

ジャック・ケルアックの小説に「火を熾す」という傑作がある。

 

簡単に、簡単な気持ちでネタバレをすると、アラスカあたりの疎隔の土地で、厳寒のなか、遭難した人と犬が火を熾さなければ死ぬという状況に陥る。けっきょく火を熾すことはできない。人は死ぬ。犬は生きる。犬は野生の側にある。

 

その傑作がいつも頭のなかにある。

 

僕は11月上旬の相模湾を目の前にしている。ここは少し肌寒い程度。そして火を熾す。

 

半島には残照。それから街の明かりが存在感を増していく。

 

夜になって、たき火をしているとすごく酔う。いくらか話すのを除けば、あとは飲むくらいしかやることがないからだろう。

 

イワシを焼いてみた。とても美味しかった。

職場の古い貼り紙を剥がす。いつから貼ってあるんだ、と思う。平成24年はつい最近のことではない。5年前だ。もうすぐ6年前になる。それが証拠に、紙は黄色く変色している。

 

誰かが見るとも思えないそれらをビリビリ剥がした。

 

壁が綺麗になる。僕は貼り紙が苦手なので、そのことにすっきりする。

 

なんていうか、環境にいい仕事の仕方や、メンタルヘルスの向上を指南する文書が、いちいち壁に貼ってある理由がわからない。

 

それから職場の女の子が褒めてくれる。ずいぶん綺麗になりましたね、と。いいことばかりだ。

 

人生を決定づけるような思想や文章があるのではないか、と思っていたこともあったけれど、そんなものは存在しなかった。

 

思春期くらいの頃までは、大人のしかつめらしい態度や根拠のない尊大さに、そういうものがどこかにあるのだろうと感じていた。どうやら本当に根拠がないとわかったのが割と大人になってから。

 

それから、僕は貼り紙を剥がして生きている。

 

皆さんはご存知だろうか。スナフキンは何かを禁止する立て札を大変に嫌う。

Wikipediaムーミンの登場人物の項にも説明がある)

 

つまりこれは、貼り紙と立て札の違いはあっても、その点の嫌悪で僕はスナフキンと共通の面を持っているということだ。そして、何が嫌いかということは、ある人間をより的確に説明する(多分)。

 

嬉しかった。

 

スナフキンに憧れる人はたくさんいても、ほぼ全ての人がスナフキンのようになることはできない。ていうか、なれるわけがない。

 

優しくて、孤独を愛し、苦手なものとは関わらないで過ごせるくらいの自由。 

 

そういうわけで僕は貼り紙を剥がす。

 

これはスナフキンのするような行為で、しかもたまには女の子が褒めてくれるのだ。

バランタインの30年ものを飲ませてもらった。値段を聞いて驚いたけれど、もらうものだから関係ない。タダで飲む高級酒は最高の味だった。なんらかの沈殿物がふわふわしていて、あれはおそらくオークの樽の一部、木がうまかった可能性すらある。普段はラフロイグの、年代が付いていないものを飲んでいる。自慢に思っていたそれも、高級酒の余韻の後にはしょんぼりした感じになる。誰かが毎日、いい酒を飲ませてくれないかな、とか考え始める。そして頭が痛い。昼から飲んでしまったから。