アマゾンがサイバーマンデーというのをやっていたので、ノイズキャンセリングヘッドホンというのを買ってみた。高かったけど、これでスタバのBGMを気にしないで過ごすことができる。話し声はそれほど気にならないし、誰かがいるなとむしろ安心するくらいなのに、BGMが全般的に苦手。

 

ノイズキャンセリング機能というのは、周囲の雑音に対して音的に反対の位相(?)をぶつけることで強引に静かっぽくするものらしい。あまりに未来。使ったみた印象としては、道路沿いを歩いてもわりと静か。遮音性が高いだけなのでは、とも思ってしまうけれど。

 

近くの公園に紅葉を見に行ったみたのだけど、シーズンをだいぶ過ぎていたようだった。見事に色づいた葉っぱは、なんだかカサカサだった。そして落ち始めていた。

 

郷土資料館の展示がわりと面白かった。僕がこの土地の出身だからだと思う。へえ、こんなところがあるんだ、とよく見ると小さい頃から何度も行ってるところだったりする。というか、小さい町だから、ほとんどの場所には行ったことがある。

 

自分のいる場所の小ささに辟易していたはずなのに、大人になってから戻ってきて郷土資料館に行ったりするようになっている。考えてみれば紅葉なんかも気にしたことがなかった。今日知ったのは、12月に見に行くのはどうやら少し遅いよう。

トローチは薬効を感じさせる。甘くも苦くもない。少しだけスッとするけれど、それも結果的にそうなったのかなくらいの微かさ。遊びがない。

 

今のところ、そのトローチもあまり効いていない。風邪かなと思う。

 

通りかかる家からは順に、ルームフレグランス、入浴剤、夕食のカレーの匂いがした。喉が痛くても鼻はなんともない。

 

しばらく歩けば、どこかしらの家からはカレーの匂いがしますね。カレーは美味しいからなのだろう。そして今晩はカレーなのだと思うと、何かに許されたような気持ちになるから。

 

先週行ったバーの女の人はとてもいい香りがした。そしてとても素敵な笑顔だった。あれは「香り」だった。

 

下を向いたまま歩いていると、たまにジョギングしている人と不意にすれ違う。かなり驚く時もある。それなのにそれって他の誰が見ても分からないのだろう。そう思うと面白い。実は僕はけっこう驚いていたんですよ、と。

 

今日の夕食は豚汁だった。カレーは見知らぬ誰かの家の食卓に並んでいる。会うこともない。でも豚汁だってわりと捨てたものではない。

喉が痛いのは、熱がないことを考えても、昨日度数の高い酒を飲んだから。先輩がほとんどおごってくれるのをいいことに普段飲まないようなものにも手を出した。

 

ジンは何があるんですか?よくわからなかったから最後のやつをください。ロックで、ちょっとライムを入れて。

 

そして喉が痛くなった。

 

街灯はいつの間にかオレンジ色になっている。いつからなりましたか。僕の知る街灯は青白く憂鬱で、真下しか照らす気のないそれだったはずだ。オレンジでよくなった。オレンジ色に照らされていると静かな気持ちになる。目に優しい。周りは見えるようで見えていないので、通りかかった家の庭の草木が雑草のよう。雑草みたいだったよ。

 

下を見ながら歩いていると、精神が内向する。ずっと歩いていけそうな気分になる。なぜかと言えば内向しているから。疲れや飽きは、内向している精神に感知することは難しい。何もない。あえて言えば歩道の柄にパターンがあるかな。色の濃いところと薄いところがある。永遠に続く。ずっとずっと内向していけば、何年でも続けることができる。

 

月が出ていて、家の屋根が青白く照らされていた。洗われているみたいだった。雪が降る土地だったらよかったのにと思う。

ケージの中の抗生物質まみれの豚

数日のあいだ酒を飲まないでいた。体調は良かったのだけど、さっき急に飲みたくなった。喉が異常に渇く。この渇きは、生命の維持のために人体が欲するそれとは明らかに違う。衝動が突き上げるよう。我慢するのがとても難しい。タバコにも同じ感じがある。こっちは今のところ、なんとか耐えている。

 

身体を粗雑に扱うことがかっこいいと思っていたことがあった。その時に染み付いた生活がなかなか抜け切らない。栄養バランスの考慮されない食事、過剰な飲酒、喫煙。今でも実はかっこいいと思ってる。しょうがない。

 

豚は毎晩、抗生物質を与えられる。与えられているかどうかは知らないけれど、そう仮定しよう。ケージの中で清潔に育つ。適度な運動を心がけ、健全な思考を育む。集団の輪を乱す思慮に欠ける行動は慎む。そうして皆が誇り高い食用豚として出荷される。

 

そういうイメージがずっとある。だから僕はまず氷結を飲む。禁煙は続けながら。

カカオは70%

フランツ・フェルディナンドを久しぶりに聴くようになった。10年ぶりくらいだろうか。テンションが上がる。

 

前に聴いていた頃は、銭湯の脇を歩いて帰る道すがらにイヤフォンでかけていた。自然に足が速くなる。そこを追い抜かせて。僕はとても速く歩くことができるのだから。月は見上げる煙突の向こうにかかっていた。それに追いつくことはどうやってもできないけれど。

 

今の僕は同じ曲を原付を運転しながら聴いている。ぶーん。原付ではスピードは出ないから、ある程度以上の速さにはならない。それでも心は前にある。

 

周りの席の人が、カカオ70%のチョコレートをくれたりするので、90%代のもありましたよね、僕が今度買ってきますよ、と話していた。だけど、コンビニに寄ってみたらもう取り扱っていなかった。本当にかつての話になってしまっていた。いつの間にか。いつの間に。

 

僕の記憶では、カカオ90%代のチョコレートは苦いばかりであまり美味しくなかった。今、人からもらう70%のバランスの取れた感じとは違う。淘汰されるべきが淘汰されたのかもしれない。美味しいものを食べて、それから心だけは速いスピードで進む。


Franz Ferdinand - Always Ascending (Official Audio)

今日、人間関係が科学された

「私たちはどうつながっているのか」という本がある。5年くらい前に買ったもので、定期的に読み返している。内容は、人的ネットワークに関するものなのだけど、僕には自己啓発本のように感じらる。

 

スモールワールド・ネットワークとかハブの形成などと言っていても、端的に言えば、ちょっと遠ざかった相手にも連絡を取るようにするといいよ。思わぬ有益な情報が得られるかも、というような話だ。

 

もう少し内容をきちんと書くと、大きくは次の2つの内容が紹介されている。

1.スモールワールド(間に数人を介せば、任意の誰と誰でも結びつけることができる)

2.スケールフリー(空路にハブ空港が存在するように、人間のネットワークにも人的つながりが集中することがある)

この2つについて、詳しい概念や生成の要因などがわかりやすく説明されている。それから、実際の生活にこれらを適用する方法も示唆されている。自己啓発的というのは、この部分のこと。

 

重要なことに、本の中でも繰り返し言及されているけれど、任意の誰かと連絡を取り合ってつながりを維持するというのには一定のコストがかかる。明らかに面倒くさいし、会ってご飯でも、となれば金銭の負担にもなる。だから、人的関係の規模は、コストと効用の比較の結果になるという。

 

なんて科学的でドライなんだ。人間の心の問題だよこれは。とはならない。

 

スタバの店内でラインを開いて眺めてみた。しばらく連絡を取っていない人が何人もいた。僕の性格からすると、こういう機会がなければこの後にも連絡の要を見出せなかっただろう。物事を客観的に見るのは、今いる枠を見直すための役に立つ。僕たちは地蔵ではないのだから、同じところにずっと立っていると考え方が偏るし、第一におそろしく退屈してしまう。

 

本の作り自体もドライにはなっていない。そこのところは多分読んでくれればわかる。

 

飲み会と焚き火の約束が1件ずつできた。やることはだいたい一緒になる。それはある程度しょうがないのかなと思う。 

私たちはどうつながっているのか―ネットワークの科学を応用する (中公新書)

私たちはどうつながっているのか―ネットワークの科学を応用する (中公新書)

 

 

季節性情動障害の思い出

冬になると太陽の光が弱くなって、物理的変化に精神が感応しちゃって、その季節だけ落ち込みやすくなることがあるらしいね。という話を後輩の女の子としていて、「具体的にどういう状況で落ち込むんですか」と聞かれて驚いた。落ち込むのに、具体的な原因があると考えたことがなかったからだ。

 

正確に言えば、確かに理由はあることが多い。うまく会話ができなかったとか、1日をぼんやり過ごしてしまったとか。けれど、そういう時期には、最善の手を常に選び続けたのでもなければ、結局のところどこかでしょんぼりしてしまうのではないだろうか。誰かに勇気を出して連絡をできなかったとか、その程度のことでもだ。

 

というようなことを、冬でも全く問題なく、元気に過ごせるようになってしまった僕でも思った。今が同じであっても、これまでに過ごしてきた時間の差というのは、人間の感じ方に断絶を生むのであろう。むしろ一層埋め難いものだろう。なにせ断絶は過去に起因しているのだから。

 

太宰治に夢中になる学生時代を送った僕は、落ち込みやすいなんていうのは、女の子に対してちょっとした長所くらいに思っているところがある。「ああいうのには理由がないから」とか言ってしまう。この人は何を言っているのだろう、みたいになっていたかもしれない。今になって、時間が経ってから悔やむこともできそう。

 

少しダウナーに振る舞うのが長所だと思っていた時代があった。今じゃあ理解はできないけれど、誰かがそうだとしたのなら、僕はそれを知っている。そして、いくらかは羨ましいと、今でも思っている。